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マラドーナ

監督 エミール・クストリッツァ 95分 2008年
公式サイト:http://www.maradonafilm.com/
アルゼンチンには「マラドーナ教」なるものが存在することを初めて知った。どんなことをするかというと、

  • チャペルは当然のようにサッカー場にある。
  • マラドーナ教の集会はナイトクラブで行われる。
  • ロザリオは、スパイクとマラドーナが代表でゴールした数の球で作られている。
  • マラドーナ教に入信する際の儀式として、入信者は、「神の手」ゴールを決められることが求められる。
  • マラドーナ教の結婚式は当然のごとくサッカー場であり、マラドーナを愛することを誓う。新郎新婦と神父(牧師?)は、サッカーボールに手をかざして互いの愛を誓い、夫妻の横にいる子供たちの言葉にはアベランジェFIFA会長への言及がある。もちろん、新郎はそのボールでゴールを決めなければならない。

等々である。映画の途中途中でこれらの場面が挿入されるのだが、それがいちいち面白いのである。こういうのを見ると、改めて「神」としてのマラドーナという人物が浮き彫りにされて面白い。
この映画は2005年3月(だったかな)から2007年までの2年間の監督による密着ドキュメンタリーである。大まかに映画で描かれることは二つである。一つは、勿論サッカーについて、
二つ目はマラドーナの政治的立場について、そして三つめは、コカイン中毒について「コカインが麻薬なら、俺はコカイン中毒だ」の章。その間にかつての栄光である、マラドーナの神がかりプレー映像が挿入される。
とは言え、最初はいきなり、監督が所属するノースモーキング・オーケストラのブエノスアイレスでのライブから始まり、「こいつがギターのエミール・クストリッツァだ」と紹介される。そしてかかる曲は、監督の作品「アンダーグラウンド」のテーマ。
ドキュメンタリーとしては、監督は意識的に自分の存在をマラドーナの重ね合わせている。マラドーナとのインタビューの最中には、クストリッツァの過去作品のシーンををマラドーナの言葉と経験を重ね合わせるように挿入してくる。「ドリー・ベルを憶えてているかい?」がワンシーンだけでも観れたのは個人的には嬉しかった。
監督はマラドーナと友好的な関係を結びながら、彼のインタビュー、2005年のマル・デル・プラタでの集会に参加するマラドーナを描いている。マラドーナは極めて政治的な立場を表明しており、その状況をマラドーナ本人は自覚している点が結構驚きだった。ただのサッカー選手ではないのであった。
マル・デル・プラタの集会では反ブッシュの立場をとり、キューバカストロを称賛し、足にカストロ、腕にゲバラの刺青を施しているほどで、彼がベオグラードに訪れたときも破壊された建物に、これは誰のせいかと監督に質問するなど、西欧諸国とラテンアメリカの搾取の関係に対して、興味を持っているという点が、僕にも興味深かった。またワールドカップのイングランド戦は、フォークランド戦争の敵討であるという宣言もあり、これまた政治的背景が垣間見える。
話は中盤、マラドーナのコカイン中毒についてフォーカスがあてられる。これはFIFAに文句を言っているし、自分が家族とのかかわりを振り返り、悔いている話も挿入される。監督のナレーションで語られるのだが、妻のクラウディアにどうやって彼はこの困難を乗り切ったのか尋ねると、彼女は「乗り切ったのは私」という言葉に監督が尊敬と考え方の違いに驚きを覚えているシーンは印象的だった。
このドキュメンタリーで独特なのは、監督がマラドーナと自分の東欧民族としての立場にシンパシーを感じているところだろう。西側諸国に翻弄された国に住んでいたという立場が、監督の独白で語られており(というか、結構監督は出ずっぱりなのだ)、マラドーナに馳せる想いを滔滔と語る。
このドキュメンタリーは対象と観察者の関係から導出される、2人の関係以上に国家の関係を描いている作品なのである。
ラスト、スタッフロールの右側に映し出される、冒頭のライブにマラドーナが参加していることで、信頼関係以上の友情といったものが確立されていることが嬉しく思えた。
マラドーナなんて名前しか知らない、サッカー興味ない、という人にもお薦めできる作品*1

*1:でも東京では今日で上映終了なので、是非ソフト化したら観て欲しいと思う