『クリス・フジワラによる映画表現論 連続講義「アメリカ映画における時間とパフォーマンス」第33回「クエンティン・タランティーノ」』を聞いてきた。
※アホみたいにすごく長いです。時間のない人は結論だけ見ればいいです。
前々から一度聞いてみたいと思っていたので奮起して行ってきた。お題の映画は「デス・プルーフ in グラインドハウス」。映画本編の上映113分+講義2時間半(質疑応答含む)の長丁場の構成*1。料金は会員料(ならないといけない)1500円+講義料800円の計2300円。会員料金は次回からは払わなくていいので、今後も行けばお得になる算段。映画+トークショーと思えば、結構お手頃な価格帯かと思う。
で、DVD-BOXをうっかり買っちゃってたりするんだが、映画を見るのは劇場鑑賞(2007年)から3年振りで、いい具合に話とか映像とか忘れてる部分もあって、大変面白く見た。というか後半のカーチェイスで泣きそうになりましたよ。うん、少し齢を重ねていい具合に感情の回路がイカレテきたな自分も、とかしみじみする。
以下、講義メモ。必死でメモしたけど、結構抜けとか僕の解釈も誤解(というか理解しきれてないところも有。でもメモする)があると思うので、実際のところは他に書いてくれてる人をネットで見つけるとかして各自補完してください。
序論*2
- これまでこの講義で扱ってきた作家は、「既に映画が存在している」という前提に立って、そこから継続して映画を作り続けることに拘ってきた人々である。具体的には、トニー・スコット、ジム・ジャームッシュ、スティーブン・スピルバーグ、クリント・イーストウッド、ガス・ヴァン・サント等々。
- 上で言う「前提」というのは、1980年代に「映画は死んだ」と言われていることで、それを踏まえてその上でどうやって映画を作るかということ。
- 例1)クリント・イーストウッド:かつて映画スターであったが、衰えていく自身の肉体をどう扱うか。また社会性と商業主義との狭間の立ち位置を模索している。
- 例2)ジム・ジャームッシュ:物語を述べることの正統性についての探究。そのうえで物語(社会)をどう扱うかの問題について考察している*3。
- 例3)スティーブン・スピルバーグとトニー・スコット:リメイク。過去の物語を作り直す(この連続講義では「宇宙戦争」「サブウェイ123 激突」を取り上げた模様)。21世紀の危機を乗り越えること。
- 例4)ロバート・クレイマーとフレデリック・ワイズマン:語り方の選択。クレイマーの「ルート1/USA」では、過去が現在にどう生きているかを描いた。対してワイズマンの「パブリックハウジング」は過去に囚われた人々を映して表出する過去を描いている。
- 現代の映画作家に対して「過去」*4が映画作家に問題を突きつけている。古典映画の場合では、ジョン・フォードの時代では、過去を悲劇として描いた。またラオール・ウォルシュは過去からの延長線上にあるヒロイズムの受容(であってるだろうか。この辺自信無)。と、このように古典映画は過去を理解する手段としてあった。
- 対して現在は、映画と現実との距離が近すぎる或いは遠すぎるという両極端になる。
- これまで挙げた過去とどうかかわるかを問題としてきた映画作家に対して、タランティーノはそうではない。初期作品に比べて、最近の作品になるほど、タランティーノのシネフィルぶりがあからさまになっている。これは過去を「使用」、つまり直接的に引用している。ただし、このシネフィルスタイルは「まやかし」にすぎない。
- 「デス・プルーフ」「イングロリアス・バスターズ」は過去の映画形式を現代に継続している。ここでいう継続とは、まず物理的に媒体が35ミリフィルムであることであるが、それ以上に重要なのは、劇場で映画を観るという"映画館体験"をどう継続させるかということである。この"映画的体験"は現代において神話的な事柄である。
- タランティーノ作品で過去からの連続性の断絶が存在する。「デス・プルーフ」においては、パム(ローズ・マッゴーワン)とスタントマンマイク(カート・ラッセル)のバーでの会話で、映画シーンの撮影方法について、(現代の若者の代弁として)パムは「CG」との台詞に対してスタントマンマイクは「70年代の映画製作ではスタントで実際に行われていたこと」について話している。この失われていくものの継続性の問題に対して、最近のタランティーノ作品はそのような断絶が起こって「いないふり」をしている。自作があたかも過去の映画からの継続性があるふりをしている。
続いて、それらを立証するための観点として4つのポイントが挙げられる。
- フィルムであることの継続性
- タランティーノが好きな映画についての作品内言及
- 過去の映画の遺物
- クエンティン・タランティーノの目的:映画の観客を作り直す
フィルムであることの継続性
- 意図的にフィルムにつけられた傷、スプライスの痕。観客にとってそれはどこまでが意図的なものかフィルム劣化によるものかという曖昧さがある。しかし、第2部(後半)になると、そのような作為がなくなる。これはそれ以降のものは(あれば)実際の劣化である。
- ただし後半にも例外が1箇所ある。それはシフトマスト(ボンネットに乗る行為のことらしい)の時だけ退色したフィルムが挿入されている。ここにタランティーノの芸術がある。それは何故か?挿入される退色であるピンク色のリーダが(?)、ゾーイ・ベルのピンク色のTシャツの色と同調しているからである。これはゾーイ・ベルのアクションへの称賛のために他ならない。ここで振り返れば、観客は前半のフィルムの傷が意図的であることを理解できる。
- ゴダールは(特に60年代)意図的な一見フィルムの繋ぎ間違いもどきのような行為をよく行っていた。「デス・プルーフ」もまたゴダールに比べれば控え目であるが、上記のような映画内での連続性を遮断している。
- 映画の上映方法がグラインドハウス形式(グラインドハウスver.の場合)。GHver.では、前半でのラップダンスのシーンが丸々抜け落ちている(アメリカ上映時では巻抜け処理が施されている)。また、このシーンでは偽のスプライス痕が映画内で集中している。これは何を示唆しているかというと、、映画(フィルム)と映写技師とのエロチックな関係性である。スプライスの痕/巻抜けは、「映写技師が興行終了後、自分だけのために何度も勝手に巻き戻し/再生を繰り返した」「映写技師がお気に入りのシーンを巻ごと勝手に持って行ってしまった」ということを想起させる。これが"映画館体験"へとつながる。
- エンドクレジットでカラースケール(発色調整のためのアレ)と美女を並べだ画が流れる。これは別に女性と一緒に撮る必要はないのだが、アメリカ映画業界の慣例とのこと。これは明らかに撮影素材としてのフィルム文化の象徴であって、また上記と同様に映画へのエロチックな欲望を示唆している。
- このようにタランティーノは過去の映画業界そのものを例示でなくそのまま使って(作成して)言及している。
タランティーノが好きな映画についての作品内言及
- タランティーノは彼自身が好む映画を自作で大量に言及している。ただし、その言及リスト(そういうものはネット上にはあるけれども)を作ることにはそれほど意味はない。どのような映画を使っているかに着目することが大事。
- 映画前半は主にその快楽のみを取り扱っている。その中心的象徴がタランティーノ自ら演じるバーのマスターがいる。お気に入りの音楽(作品内ではジュークボックス)をかけながら、酒を振る舞うという行為自体が過去の映画のメタファーである。アルコールもまた同様の意義をもつ。音楽への身体への影響。これがフェティッシュの重層的な構造を構築している。映画史的にはヴィンセント・ミネリの「走り来る人々」が挙げられ、この映画ではジュークボックスがフェティッシュ的存在として扱われている。ジュークボックスが効果的に使われている作品例として、「恋する惑星」「はなればなれに」、オットー・プレミンジャーの作品群がある。
- (ここでクリス・フジワラ氏の個人的見解であると前置きして)アルコールや大麻の摂取が映画のリズムに影響を及ぼしていない。これらのシーンがもっと長く撮られていれば、「デス・プルーフ」はよりいい映画になっていたかもしれない、とのこと。飲酒行為が映画の流れを変える例として、デニス・ホッパーの「イージー・ライダー」やオリヴィエ・アサイヤスやジョン・カサヴェテスの作品など。
- 「デス・プルーフ」では、酔っぱらう行為を引き戻している。例)スタントマンマイクが酒を飲まないこと。タランティーノにとって大事なことは何よりも"Cool"であること、つまり自分でコントロールできること。
- 後半テストドライブ(購入前の試走)を映画に組み込んでいる。ゾーイ・ベルが本気で購入するつもりではないことに注目。これは映画が本物ではないことと本気でかかわることへの言及にもなっている。このテストドライブという映画内行為が「概念」としてタランティーノの映画へのかかわり方である。ひとつに線引き、つまりこれ以上はかかわらない(コントロールできないことはやらない)ということを明示している。もうひとつそれはパフォーマンスで乗り越えられる(本気で現実とかかわる)かもしれないということをやっている。
- 演技ということにも述べることができて、登場人物の典型的パターンを表現している例がある。前半では、アーリーン=バタフライについてのラジオDJの説明をわざわざDJの友人の女優(という役割の人物)に演技させている。しかもそれは男役である。後半では、車を借りるところがそうである。これは現実の演技学校で行われる演技の成功例である*5。
- そしてスタントマンの存在(スタントマンマイクとゾーイ・ベル)。スタントマンは俳優の代役としてパフォーマンスを行うが、実際の映画では前面に出てこないもので、いないものと同じ。これが戯れであって本物ではないというフィルターになっている。彼らの存在によって商業映画製作の現実を魅せることで観客を映画の側に引き込む効果があり、さらに観客に上から目線で見させている。
- 「上から目線」で見させる例として、後半の女性4人のダイナーでのシーンをカメラのワンカット長廻しで撮っていることをが挙げられ、これによって映画の全てを見ているという普遍的な力を観客に与えている。
- また、先ほどあげたエンドクレジットのフィルムへの観客が対するエロティックな関係、実際に触れないということを超越して本物の性があるということが言える。
過去の映画の遺物
- 遺物=スタントマンマイク。「デス・プルーフ」はカート・ラッセルの肉体についての映画でもある。同様の映画にクリント・イーストウッドの「ブラッド・ワーク」がある。
クエンティン・タランティーノの目的:映画の観客を作り直す
- グラインドハウスという、かつて大衆娯楽であった頃の映画の形式を、既に無い今の映画に組み込むことによって、「映画の観客を作り直す」ということを例示している。
- (ここでまたクリス・フジワラ氏の個人的見解であると前置きして)「デス・プルーフ」と「イングロリアス・バスターズ」の不快感は観客に特定の立場をとらせていることである。「イングロリアス・バスターズ」では観客はもっと早くヒトラーを殺してほしいと願うはずだが、観客は反応不可な状態でヒトラーの痛みを知ることになり、それはまた拒絶が不可能なものである。ヒトラーは机上の空論的な要素が強い(?)。
- 「デス・プルーフ」はさらに深刻で、スタントマンマイクをどう思うかを操作されている。タランティーノの映画の嗜好は西部劇、ジャーロなどだが、これらは登場人物への感情移入がしやすい映画である。対して、「デス・プルーフ」はスタントマンマイクに感情移入させないかという方針で撮られている。例)前半、スタントマンマイクがパムを車に乗せた後、彼、カート・ラッセルはカメラ目線で笑いを向ける。これにより観客との共犯関係が形成される。
- タランティーノのファンは10代男子が多いが、彼の振る舞いとファンとの関係は反動的である。「デス・プルーフ」は暴力への意識、欲望をスタントマンマイクが表現しているが、タランティーノは暴力から離れる立場をとっていて、これはバーのマスターがスタントマンマイクのことをあまり好ましく思っていないように描かれていることから読み取れ、暴力への欲求を流布する立場のタランティーノの説明である。
- 後半でのモノクロシーン以降フィルムの傷がなくなっていることも説明になっている。ただなぜそうしたのかはわからないが、しかしフィルムへの意図的操作が行われている。
- 上述の例として、
結論
- タランティーノ現象とは、表面的には映画という「儀式」の再生である(ただし真の「復活」ではない)。タランティーノが過去について言及しても、過去を援用したとしても、映画の「再生」にはならない。それはタランティーノ自身に内在する「かつてなかった過去」であり、今までの映画にはない新しさに向いている。
- 観客はリアルなものではなく、映画で扱われた「テストドライブ」という立場に置かれている。
- タランティーノは架空の、仮想のスペースを作ることによって、「映画は死んだ」という過去から脱しているのである。
質疑応答
※書いてて思いましたが、質問と回答がかみ合ってないような気がします。でもそれはここにメモをおこしている僕の責任です。
- Q:(質問者の方は熱心に話していたのですが、よく質問がわかりませんでした。多分要約すると)この映画はセクハラ映画で、本当は男性ではなく女性が語るべき映画なのではないか?A:タランティーノの共感の行先は女性。いい音の構成は前半に、いい画の構成は後半にそれぞれ集約されている。ちなみにタランティーノが自分で撮影監督をやっている。
- Q:"真夜中"という雑誌があって、その中で蓮實重彦と黒沢清と青山真治が対談していて、その内2人がゼロ年代ベストに「デス・プルーフ」を挙げていた。何だか「デス・プルーフ」でタランティーノの日本での評価が上がったらしいんですが、その辺どうなんでしょうか?
A:まだよく分からないのが、映画作家タランティーノの誕生はもっと早くて「ジャッキー・ブラウン」だと考えている。単なるビデオ屋のあんちゃんが作った映画ではなく、ドラマが描かれていると思います。いくつか問題はあるけどいい映画です。個人的には「イングロリアス・バスターズ」より実験的で興味深い作品です。 - Q:映画が現実から遠すぎる/近すぎるとはどういうことですか?A:具体例を挙げると、現実と近い映画はスピルバーグの「宇宙戦争」。視点の喪失を物語構造に組み込んでいる。対して遠い映画はジム・ジャームッシュの「ブロークン・フラワーズ」やクリント・イーストウッドの「インビクタス/負けざる者たち」、ロバート・クレイマーの「ルート1/USA」。カメラを向けた先にあるものが幽霊的な映画です*7。
- Q:(質問不明。解答だけのメモ)A:(結論を繰り返すと)タランティーノの映画は過去の再現ではなくて、"自分自身の想像上の"映画的過去を再現しようとしている。彼の作品は過去の引用を知らなくても楽しめる。何故なら新しく作ったものだから。ゴダールとタランティーノの大きな違いについて。ゴダールにおいて、現実の映画は全てリアルなもの。過去への言及は自分の現実位置を確認する作業であり、映画の外の出ようとする行為である。タランティーノにおいて、過去は戯れ/ゲームみたいなもので、タランティーノ本人とは現実は結びつかないところにある。映画の過去はイメージと戯れるためにあって、既に自己充足したものである。
講義を終えて自分用メモ
- 次回講義は9月の予定。アテネ・フランセ会員になってしまったので、行く予定。
- 参考資料:雑誌「真夜中」の記事は探す気力がなかったのですが、蓮實重彦の2009年ベスト10と2000年代ベスト10(http://green.ap.teacup.com/nanbaincidents/841.html)と黒沢清、青山真治が選ぶゼロ年代ベスト映画10作(http://d.hatena.ne.jp/yomoyomo/20100121/directors)。ついでに、ここにうっかり辿り着いた人のために自分のゼロ年代ベスト映画(http://d.hatena.ne.jp/enola/20091221)もさらしときます。自分のベストには「デス・プルーフ」は入っていませんが、今考えると(再見して色々見直すところもあり)15位ぐらいにいれるべきカモしれません。
- 観とかないといけないような気がした映画。ラオール・ウォルシュ作品。ヴィンセント・ミネリの「走り来る人々」。ロバート・クレイマー「ルート1/USA」*8。フレデリック・ワイズマン「パブリック・ハウジング」*9。トニー・スコット「サブウェイ123 激突」。クリント・イーストウッド「ブラッド・ワーク」。しかし、ロバート・クレイマーとワイズマンはどうやって観ればいいのでしょうか。
- 個人的にタランティーノベスト5を作成しておく。今度「ジャッキー・ブラウン」を借りてみること。